スーパーカー列伝39 メルセデスベンツ300SL

こんにちは

本日は、あの300SLです。

メルセデスベンツは、あくまでブランド名ーでございまして
本当は当時ダイムラー・ベンツという会社名です。
(現在はダイムラークライスラーを経てダイムラーになってしまいました)

ダイムラーとベンツは、ドイツの程近いところで、
ガソリン自動車を研究していて、この二人の会社が
一緒になってできたのがはじまり。

ということで、世界最初のガソリン自動車メーカー
という自負もあり、

戦後は、手堅い設計の真面目なセダンを販売していた
ダイムラーベンツですが、

かつてサーキットでの名声をほしいままにした、
レースの世界に戻るため、
SLを開発しました。

SLはSport Leichtの略
軽量スポーツの意味だったんですね。

SLは1950年代の車としては
画期的な車でした。

まずエンジン。
なんと機械式インジェクションンが装備されています。
3リッターから215馬力を発生
最高速度は260キロを誇る
当時最速の車でした。

そしてボディー
マルチチューブラフレームを使った
高剛性ボディーだったのですが、
サイドシルのところに、フレームが通っておりまして
構造上ドアの下部を低く出来なかったんですね。

そのため屋根から開くようなドアを考案。
いわゆるガルウィイング。

レースに参戦すると他チームから、苦情が
しかしメルセデスベンツの監督
かつての名レーサーノイバウアーは
「ドアは横向きに開かなければならないとは
どこにも書いていない」とこれを一蹴
承認を得ます。

しかしながら、メルセデスベンツが
長くこだわり続けた、リヤのスイングアクスルの
サスペンションが、
癖のある操縦性をもたらし、
多くのドライバーが命を落としたことから
widow maker(未亡人製造機)
のありがたくないニックネームを頂戴
することになりました。

レースではその軽量さと、パワフルなエンジン
そしてドイツ人らしい水も漏らさぬ、鉄壁のピットワーク
があいまって、好成績を収め

市販車としては6,820ドルという高額にも関わらず人気車種なりました。
1957年5月にガルウイングをもつクーペモデルは生産終了となり、
以後はロードスターモデルに移行した。
生産台数はクーペが1,400台、
ロードスターが1,858台といわれております。

日本でも石原裕次郎の愛車として有名でした。

たしか小樽の記念館に飾ってあるはずです。

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スーパーカー列伝38スズキフロンテクーペ

こんにちは

本日はちょっと小さいスーパーカー。

バブル時代の日本にも小型のスーパーカーとも言うべき
ビート、カプチーノ、AZ1などの個性的な車がありましたし
今も、ホンダ、ダイハツなどがスポーツ軽をだしております。

これはそれよりずっと前の軽のスーパーカー。

軽自動車は、当初はミニマムトランスポーターとして
1家に一台、実用的な足として販売を拡大していきました。

その1番手はスバル360であり、そのライバルスズキフロンテ
等だったわけですが、この分野に得意の高回転エンジンで
殴りこみをかけたのがホンダN360でした。

これを契機として、突如軽自動車にパワー戦争が
始まるわけです。

N360に対向したスバルはヤングSSという360CCから
36馬力をひねり出すスポーツモデルを投入。
ダイハツからは、ついに最高出力40馬力のモンスター
フェローマックスが登場する。

またこのころ高度成長を経た日本では
ファミリーカーの役割は
新しく登場したサニーやカローラに移りつつありました。

軽自動車は独身の若者の足としてみなおされる
ようになってきました。

そんな中でフロンテクーペは登場します。

リヤエンジンリヤドライブこそ
ベースとなったフロンテのものですが、
空冷だったエンジンを水冷化。

3連キャブをぶち込んで、
6500回転まで回って最高出力37馬力をひねり出します。
当時のススキの2トロークは3気筒でバランスよかったんで
軽々と回りましたね。

しかも二人乗りの割り切ったクーペボディー。

このボディーはスズキが関係が深かったジウジアーロの
作といわれましたが、実際はジウジアーロの原型は
もっとずんぐりむっくりで、ミニバンみたいだったのを
スズキ社内でスポーツカーのスタイルに練り直した
もののようです。

フロンテクーペーはそのスタイリングの美しさと
性能の高さから、結構な人気を得て、

軽の規格が550CCになったときには
ほぼそのままのイメージでボディ幅を拡大して、
「セルボ」として生まれ変わりました。

ただ、こちらはどちらかというと女性向けの
おしゃれなクーペーという感じで、

パワーはぐっと抑えられたモデルでした。

排気ガス規制の関係から、もはやこの世に
存在しないスズキの3気筒2サイクルエンジンですが
私もジムニ550で経験済みです。

うるさくて煙いのですが、音はいいです。
そんで、どこまでも回りそうと思うぐらい
よく回りましたっけ。

そんなフロンテクーペ。
今でも旧車フェスティバルでは何台か
見かけることができます。

小さいですが、スーパーカーのような
雰囲気をかもし出しています。
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スーパーカー列伝37 BMW2002ターボ

こんにちは

本日は量産車初のターボカー2002ターボです。

BMW M1のときにもちょっと触れましたが、
戦後のBMWは倒産寸前まで追い込まれ

ダイムラーベンツに買収されそうなところ
だったのですが何とかそれは回避。

その後、起死回生をかけて出したといわれる
BMW1500(いわゆるノイエクラッセ)が
当時の水準を上回る高性能と高品質が受けて
やっと一息つけるところまで、業績が回復します。

2002はこの1500のデザインの流れ汲んで出した
1600-02が源流です。

1500のサイズをダウンして出した車、いわば
現在の3シリーズですね。

このころからBMWの車は、同じようなテイストの
サイズの違う車を作るようになっていきます。

戦後の経営不振から倒産寸前まで追い込まれた
反省なのでしょう。

絶対に失敗は許されないということなんでしょうね。

そのためなのか、2002もこれでもかというぐらい
ボクシーな真面目なスタイルですね。

さて、経営が上向いてきたBMWは、次第に
「スポーティーなセダン」を作るメーカーとして
のイメージが定着。

となればモータースポーツにも力が入るわけで、
そのためにはなんとしても目の上のタンコブ

ポルシェをぶっ潰さねばならない。

なりふり構わぬ、高性能モデルを出します。

2002の4気筒2000CCエンジンに
KKK社製のターボチャージャーをドッキング。

最高出力170馬力!の当時としてはモンスター
モデルを発売するのです。

2002の真面目でどことなく人のよさそうな
イメージを打ち破るかのような、ど迫力の
エアダム。

そしてリベット止めのオーバーフェンダー。

只者ではない雰囲気をかもし出します。

そして、ハイライトはエアダムのステッカー

わざわざ鏡文字にして、前の車の
ルームミラーからちゃんと判読
できるようにすると。

(どっかの国のターボカーもまねしてましたが(笑)

ところで
ターボってのは、熱回収装置で
理論的には、エンジンの燃費も
良くなるはずなんです。

実際現代のダウンサイジングターボエンジンは
燃費が改善してますよね。

一定回転で回り続けるエンジン
【飛行機とか船舶のエンジン等)
には効果的でも、車みたいに常に回転数が
変化するものには適応が難しい。
ターボが動かない領域がでてしまう。
いわゆるターボラグ。

しかも、燃料噴射は機械式。
いまの電子制御みたいに緻密に
燃料は吹けませんしね。

2002ターボもやっぱり、
高速時のデトネーション(以上発火)
対策のため圧縮比6.9まで下げられておりましたので

予想通りのドッカンターボ、
ついでに燃費が最悪。

レーシングカーとしてはよかったのかも
知れませんが、オイルショックの影響もあり
わずか1600台あまりで生産が中止されて
しまいました。

しかしながら、世界初の量産車のターボカーとして
長く記憶に残る車となるでしょうね。

この羊の皮をかぶった(ど迫力だからかぶってないか?)
狼の雰囲気。
こたえられませんねえ。

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スーパーカー列伝36マセラティギブリ!ギブリ?ギブリ??

こんにちは

本日はイタリアの名門
マセラティ。

マセラティというのはスポーツカーの名門なのですが
ご多分にもれず、オーナーが次々に替わる会社で
ございまして。

マセラティー兄弟→アドルフォ・オルシ→シトロエン→
シトロエンを買収したプジョー→デトマソ→
フィアット傘下のフェラーリ→フィアット

という複雑な悲しい歴史がございます。

マセラティの社章の三叉(トライデント)は
発祥の地ボローニャーの市章でございます。

さてそのマセラティーを象徴するようなモデルが
このギブリ。

この車ほど時代よってイメージが変わる車はございません。

初代はオルシ時代。
1966年にデビュー。
このころはV8の4.7リッターを搭載する
またしても、カロッツェリアギアのチーフスタイリスト
ジウジアーロデザインの堂々たるクーペです。

最高速度は265キロ。
当時は、世界最速をランボルギーニミウラと争っておりました。
フェラーリデイトナもライバルでしたね。

1970年にはついに5リッターモデルも出まして、
世界最速のスーパーカーとしてマセラティーの
ヒットモデルとなったのでした。

続いてギブリの名前が復活するのは
1992年。デトマソ傘下時代。
このころのマセラティーは経営危機期からなんとか脱して
スマッシュヒットとなった(BMのデットコピーと揶揄された)
ビトゥルボをベースにした、さまざまなモデルを出しておりまして
私も良くわからないぐらいですが、
ギブリはツードアの4シータークーペとして
登場しました。
ブリスターフェンダーをまとった迫力あるボディーは
当時のフラッグシップシャマルと似たデザインでした。

そして時を経て、またもやギブリ復活。

なななんと、今度は4ドアだよ4ドア。

かつてのフラッグシップモデルの名称は
クワトロポルテ(なんのことはないクワトロ=4、ポルテ=ドア
なんでマセラティー4ドアって名前なんですね)
の子分、マセラティーのエントリーモデルの
名称になってしまいました。

こいつはなんとディーゼルエンジンと、
4WDの仕様もあるという。マセラティーらしからぬ
モデルです。

さてはて、デトマソ傘下から抜け出し
フェラーリの手が入った3200GTのヒット
クワトロポルテのひそやかなブームと
次第にブランドイメージを取り戻してきた
マセラティーですが

この新生ギブリが「名門復活」の鍵を
握っているのかもしれません。

え、私だったら。

やっぱ初代ですかね。
初代あまり人気ないですから
この手のスーパーカーの中では
結構安いですよ。
マセラティーは実用域重視のエンジンですから
乗りやすそうですしね。

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スーパーカー列伝35 いすゞ117クーペ

日本の名車をひとつ

いすゞ117クーペです。
117といえばジウジアーロ
ジウジアーロといえばいすゞというぐらい
関係が深い両社ですが、

ジウジアーロのイタルデザインも
ついにワーゲンの傘下になってしまいました。
1960年代から、1990年代までは、デザインを
社外のスタイリストにお願いして、
新たな車のデザインを生み出すという手法が
通用したのでしょうが、

現代の車に対する要求、
安全性。軽量化、居住性の確保、プラットフォームの共用等
これらと、スタイリングは密接に絡み合っていますから、

いまどき社外のスタイリストのデザインを外注する
というのは難しくなってきたのでしょうか

そういう意味では、スタイリストは上記のような
与えられた条件の中で最大限の努力をするということになって
きたのでしょう。

ですから社外におくより、社内において
コミュニケーションを密にして、仕事をしていかねばならん
ということなのかと思っています。

また前置きが長くなりました。

いすゞ117は
カロッツエリアギアのチーフスタイリストだった
ジウジアーロがデザイン。
この人は、純粋なスーパーカーより
こういうGTをデザインするほうが
能力を発揮する人なのかもしれません。

117は良く見てみると、クーペにしては
かなりキャビンがでかい車だということが
解ります。クーペとはいえ
4人の大人が無理なく乗れるように
スペースを確保した結果です。

この大きなキャビンを大きく見せないように
リヤデザインとの融合ともうしましょうか
リヤガラスを複雑な形状にして、
ついでにトランクの蓋とも融合するような
工夫をしていることがわかります。

この辺がスタイリストの腕の見せ所なのですが、
こいつを量産の体制で実現するというのは
現代の生産後術ならともかく、
1960年代の生産技術では到底困難。

そこでいすゞは大まかな形だけプレス器で
型を取り、実際の生産では、微調整して
組み立てるというまさに、手作りに近い
生産方法を選択をします。

これが117クーペの初期のモデルが
ハンドメイドと称される理由です。

当然のことながら、こんな生産体制では
生産台数は極限られたものであり
1968年から1971年までの3年間で
2400台足らずが生産されたに過ぎません。

ついでに、こんな生産体制ですので、
価格はめちゃくちゃに高く
172万円でした。

トヨタ2000GTが238万円で高値の花
クラウンが80万ぐらいの時代です。

今で言えば、400万から600万ぐらいの
感覚でしょう。

しかもいくらDOHCだとはいえ
たったの1600CCで190キロでるぐらい
高性能だけど、トップクラスではないクーペ。

いすゞは日本にも高級パーソナル
クーペの市場があると思ったのかもしれません。

1971年、いすゞはGMと提携します。
GMからの資金支援によって技術力
が向上。複雑怪奇なボディーラインも
自動機でプレスすることが可能となりました。

117もの増産体制が整ったのです。
しかしながら、当初の高級パーソナルクーペの
理想は失われ。

ジウジアーロのラインを忠実に出した
手作り時代の清楚な美しさは
かなり失われてしまいました。

エンジンも拡大。
2000CCのDOHCエンジンを搭載した
高出力モデルなどがカタログに
登場するようになります。
また1800CCのエンジンを搭載した
廉価モデルは、庶民の手に届く
117になりました。

1980年代になっても、ジウジアーロの
デザインしたボディーは古さを感じさせない
物でしたが、いすゞのセダンフローリアンを
ベースにしたシャシは次第に陳腐化。
1981年に後継車ピアッツア

(すみませんピアッツァが正しいそうですお詫びして訂正いたします)

の登場とともに
静かに生産を終えました。
総生産台数は86000台といわれています。
いかに最初の3年が少量生産だったかが
お分かりいただけましょう。

117はいまだに国産車の中では名車の
誉高く。
とりわけ初期モデルの「ハンドメイド」は
高値で取引されています。
しかし、そのハンドメイドのパーツは
後期の量産モデルとは、微妙にラインが
違うため、維持するのには相当の
困難が伴うそうです。
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スーパーカー列伝34 ランボルギーニエスパーダ マルツァル

こんにちは

本日はランボルギーニの4座グランツーリスモをひとつ。

今でこそどこのスーパーカーメーカーも、4座の乗用車的モデルを出しておりますね
フェラーリ然り、マセラティー然り、ポルシェ然り。
スポーツカーメーカーのSUVなんてのもポルシェが先鞭をつけました。

そんななかランボルギーニは、いち早くこの市場に目をつけました。

そして1967年のジュネーブショーにマルッアルという斬新なGTを発表します。
これはランボルギーニのV12の片バンクを利用した2リッター6気筒エンジンを
なんとリヤに搭載して、キャビンスペースを確保するという画期的なモデル
空力特性の良いボディーとあいまって
時速220キロをマークしたとのことです。

それにしてもいかがですか、このクリーンで未来的なキャビンと
そしてSFチックなシルバーのレザーシート。
なんともアバンギャルドなデザイン。

もちろん、デザインはベルトーネってことは
マルチェロ・ガンディーニ先生。

そして驚くべきことに、似たようなデザインで
翌年ジャガーからもショーモデルが発表されます。
ピラーナというモデルです。

こちらは、マルツアルより現実的なデザインです。
すでに、ほとんどエスパーダだって感じですが。

たぶんジャガーはこれで生産する気はなかったんでしょうね。

ということで結局もとの鞘に戻ってランボルギーニから
エスパーダが発表されます。

流石にリヤエンジンで220キロも出したら、おそらく
安全性に?だったのでしょうね。
常識的に、フロントエンジンに改め、
エンジンもV12の4リッター(ランボはこれしか持ち玉なかった)
ガルウイングのドアは通常のドアに

しかし随所にガンディーニらしいデザインディテールがちりばめられています。
最高出力350馬力を発するエンジンは、
全長は4.7メーター1400キロの大柄なボディーを
260キロまで引っ張ったとのことですが、
1200キロ公称のカウンタックが1600キロもあるんだから
この辺の数字も2割ぐらい割り引いて考えたほうがいいかもしれません。

しかしながら、4座のスーパーカー、しかもATの仕様もあり
イージードライブも楽しめるエスパーダーは
ランボルギーニのロングセラーモデルとして、
10年にわたり1200台あまりが生産されました。
残念ながら1978年のランボルギーニ倒産とともに
生産中止となり、その後生産されることは
ありませんでした。

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スーパーカー列伝33 フェラーリ288GTO

こんにちは

本日はフェラーリのお話。

288GTOです。

F40の著名さに比べて、やや地味な印象の288GTOですが、
その内容は恐るべきリアルレーシングです。

288GTOは1984年のジュネーブショーにて発表。
当時のグループB規定に沿って設計された
競技への参加を前提としたモデルです。
GTOとは、(そうでない某国の車もありますが)
GT-Omologation の意味で、日本語で言えば
規定に沿ったホモロゲモデルという意味で寸

見た目こそ、308の雰囲気ですが、
その中身はまったく別物です。

エンジンは、308の横置きから縦置きに

そのエンジンもグループCレーシングカーであるランチア・LC2用
の3リッターエンジンを2850CCに縮小したもの
(ターボ係数1.4をかけると4リッターの扱いになる)
ツインターボで加給され、
なんと出力400馬力。
トルクにいたっては50.6kg/mを発生。

ボディーは、鋼管スペースフレームをベースに、
ボディーはカーボンケプラー等の新素材を採用
車両重量はわずか1100キロ。

これが遅いわけがありません。
最高速度は305キロ
ゼロ→400m加速 12.7です。

当時のグループBのラリーでは
4輪駆動のモデルが主流で、2駆の大馬力モデルが
勝ち目はなかったとのことで、
「本気で出場しようとは思ってなかった」
との定説のようですが。

どうでしょうこのスタイリング。
308のフェンダーをさらに膨らませた
グラマラスなライン。

そして迫力の、四灯フォグ。

そしてリヤから除く、むき出しのミッション。
そしてダックテール。

F40ファンのかたがたから石が飛んでくるのを
覚悟して申し上げますと。

100倍かっこいい(笑)

残念ながら1986年にグループBの規定は
過激になりすぎたその性能競争による事故が
発生して、規定のものがなくなってしまい、
288GTOがレースに出場することはありませんでした。

生産台数はわずか272台といわれています。

そのごこのモデルを下敷きにF40という
スーパーフェラーリが登場するのですが、
80年代初頭の、怪物フェラーリで
こいつが一番好きですね。

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スーパーカー列伝 32日産MID4

こんにちは

再びバブルの日本の話。

1990年の日本の自動車販売台数は800万台に届こうとしておりました
2014年が回復して、550万台ぐらいですから、
いかに80年代後半から90年代初頭の日本の自動車
業界に勢いがあったかということです。

そんななか、日産自動車は
901運動というスローガンを掲げます。

90年代に技術で世界一になる(という技術でというのが日産らしいのですが)
野心的な目標だったのですが、
この目標は一定の成果をあげ
当時日産はシーマのような暴力的に早い高級車とか。
BE1のような、今までなかった個性的なデザインの車。
そしてホンダプレリュードとのデートカー戦争を制したシルビア
そして、マジなGTカースカイラインGT-R等

一時代を築いた名車を生み出しました。

さて、そんななか、ひょっとしたら、大ヒットになっていたかもしれないけど、
出していたら、日産はルノーにも見向きもされなかったかも
というショーカーがあります。

日産MID4です。

MID4といいますから、ミッドシップ。
そして4というから4輪駆動だったんですね。

この車は1985年にフランクフルトショーに出品されます。
日産としてはあくまで、プロトタイプそして、WRCで採用が
うわさされていたグループSに対応するということも検討
したモデルだったのですが、完成度の高さと
日本のバブル景気の進展によって、
市販化が熱望されるようになります。

そして1987年の東京モーターショーに市販化を前提
としようなリファインしたモデル
MID4Ⅱが出品されます。

ミッドシップ横置きだったMID4から
今度は縦置きに、
そして、エンジンはターボ化され
330馬力を発生。
そしてサスペンションは当時の最先端
マルチリンクを採用。

240キロでもかっ飛ばしても運転しやすい
スポーツカーとして企画されました。

MID4Ⅱは試作車であったものの、
ショーカーがなんとカーグラフィックに
提供されて、テストを受けるなど、
市販秒読みといわれていました。

しかしながら、車の生産コストを考えると
2500万円で販売しても、利益が出るかぎりぎり。

もともとスーパーカーメーカーではない
日産のスーパーカーに果たして2500万円
払う人が居るだろうかという現実的な問題がのしかかります。

この件を当時ポルシェ959を開発していたポルシェに相談したそうですが
ポルシェからは以下のような示唆があったといいます
(出典wikipedeia)
「959のようなクルマは、採算を度外視して、ポルシェが持てる力を
全部そこに集中して初めて出来るようなクルマなんだ。そのためには、
それこそが我らの仕事だと発想できるような組織が必要だ。組織というのは、
つまり人間だよ。かじり付いてでも完成させるんだ!
我らの技術の粋を見せてやるんだ!!っていう気概を持って
仕事に取り組んでいる人間で構成されている組織かどうかということだ。
ポルシェはそうだ。日産は、どうなんだい?}

これを聞いた日産本社は、MID4を中止する決断をしたとのことです。

しかしその後、MID4で培われた技術は
GT-Rや、フェアレディーZなど日産のバブル期を
彩った車たちに生かされていきました。

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スーパーカー列伝31 ホンダNSX

こんにちは

1980年代後半から、90年代の半ばごろまで、
日本のバブルの時代に企画された車には、相当な
物量と技術が投入されていたと思います。

たとえば、トヨタがはじめてベンツ、BM、などの
ガチンコ勝負に出たセルシオなんかは、他の追随を許さぬ
静粛性、くわえてその完成度の高さ。そして価格の適切さ
(安さ)に他メーカーが相当脅威を持ったということが
いわれています。
日本車はあくまで、大衆車を出すメーカーの集まり
と言う感じで捉えられていましたから。

さてそんな中で、ポルシェ、フェラーリの独壇場で
あるところの高級スポーツカーの分野にも
日本から一石が投じられます。NSXです。

NSXはバブルの絶頂を迎えていた1989年に登場します。
日経平均株価が最高値を付けたこの年でしたが
翌年には2万円割れとなりましたから、本当に
バブルの最後に登場したことになりますね。

当初は軽量で快適なミッドシップスポーツカーを目指し
4気筒の軽量エンジンを搭載することも考えていたようですが、
F1に参戦する本だとしては世界に向けて
ホンダのスポーツスピリットを表現するような
本格的なスポーツカーとするということに変更。

当時ホンダはなんとドイツニュルブルクリンクに
開発基地を建設。当時のF1ドライバー中嶋悟
アイルトンセナなどにもテストを依頼して開発
を進めます。日本発のアルミモノコックのボディーは
当初剛性が低く、ドライバーからは改善の厳しい
要求が出たと言います。

当時のフェラーリのミドシップ328を超える性能
を目指していたのですが、なんせ個体差の大きいフェラーリのこと

ホンダは何台も買う羽目になったそうです。

エンジンも当初の4気筒からレジェンド用のV6をツインカム化
ついでに、当時の最新技術可変バルブタイミング機構
(VTEC)を導入して自然吸気の3リッターで自主規制いっぱいの
280馬力を達成しました。

さて販売が開始された、1990年当時まだ、バブルの残り香が
漂ってましたから、すぐに予約注文が殺到。
へたすると中古屋にならんでるアメリカ並行のアキュラの左ハンドル
モデルのほうが高い、という新車と中古の逆転現象
なんかも起き、とりあえず注文入れておけば
後で儲かるぐらいの話しも流布していたような
気もします。

このNSX。私大学生のとき、先輩の父上がオーダーを入れた
と言うお話しを聞き、お金はあるところにはあるもんだと
感心した覚えがあります。

アルミのモノコックで少量しかさばけなかったホンダも事態を
重く見て、増産体制を引き、日産25台を50台まで増産し、少しでも早くユーザーの手に
届くように努力しましたが、翌年になるとバブル崩壊の本格的な
景気後退に入り、キャンセルが相次ぐという皮肉な結果を
招きました。

2005年の生産終了まで世界で18000台あまりが送り出され、日本では7400台を販売
いまでも6000台超が現存するそうです。
ただそのほとんどが1991年以前の初期モデルだとのことです。

フェラーリの性能を目指して作られたNSXに、おそらくフェラーリも
脅威を感じたのではないでしょうか?
フェラーリはまったく新しいモノコックボディーの348を89年に投入していますし
その後の355などはマラネロの工芸品と言われたフェラーリの品質を
大幅に引き上げたモデルとなりました。
NSXは現代のアルミボディー車と違って、スチールモノコックをアルミに置き換えたような
構造で、基本的に板金修理ができません。(現代のアルミボディーは外板の交換が容易)
アルミは鉄板みたいにたたいて戻したりというのがきわめて困難ですからね。

そうした中でも6000台近い車が残っているのは、
メーカー自らリフレッシュプランなどのメニューを提供し、
長くユーザーに愛される努力をしている現れだと思います。

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カーライフ小話③タイヤの賞味期限

久々のカーライフ小話
タイヤの話です。

わたくしは、車ってのは新車で購入したことは一回しかなくて
人生のほとんどが中古車なもんで、
新品のタイヤがついてきたことは、
新車で買った一回きり、ローバーMGFについてた
ダンロップイーグルツーリングだけです。

ですんでね、タイヤの件はいつも車を買うと
付きまとうなやみどころ。

タイヤってのは、使用限界というのと
賞味期限ってのがあるんですよね。

使用限界ってのはもちろんあのスリップサインの
話でして、これが出るまでやっちゃったらアブネーですよ。

最近特にね、ゲリラ豪雨なんかあるじゃないですか。

あんなんで、ちょっとわだちに入っちゃったら、
新しいタイヤでもハイドロプレーニング起こしますから

溝がちびたタイヤなら、さてどうなるかと言う話。

安全は金には替えられないですよ。

ついでに言うと、ゴムタイヤってのは、
厳然たる、賞味期限ってのもありまして、

タイヤってのは車の技術の中でももっとも
ローテクで、昔ながらのものなんですね。

他の素材分野に比べて進歩が少ない。

その分替えると大きな差に驚くわけですが、

タイヤの進歩を支える一つがゴムに加える
添加剤。

この添加剤が曲者で、添加してしばらくは
ゴムの柔軟性を保ったり、耐候性を高めたり
しているわけですが、

所詮は添加しているもので、ゴムの本来の特性では
ないわけですから、いつか薬の効き目は切れると。

そういうわけで、賞味期限はあるわけです。

メーカーでもいろいろ言ってますけど

おそらく製造して5年ぐらいが賞味期限なんでは
ないでしょうか。

もちろん、日の当たらない場所で使わず
大事に保管していれば多少違うと思いますが

それにしたって10年も経過していれば
問題でしょう。

その際タイヤの製造年月日を確認することが大事でして、
画像のような方法で製造年月日を確認することが
できます。

n19
出展タイヤリペアキット チューブレスサイト

店頭ではなくてウェブで購入するとき等は
メーカー直送で、製造年を指定することはできない
場合もありますが、

在庫品を購入するにしても、
2年落ちぐらいを目安に購入されるのを
お勧めします。

タイヤもウェブですとかなり安いです。
中古車についているタイヤがどんなに
ブランド品でも、
新しいタイヤにはかなわないですよ。
ちょっと安くてもとっとと交換
いたしましょう。